20-strings-koto player Gayo Nakagaki |
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なるほど。技術をというとテクニックばかりを追いかけてととられがちだろうけれど、これはそういうことをいっているのではないとおもう。 たゆまず研鑽していく、自分の音楽を追い求めていく、そういうことなのだろう。わたしもそうでありたい。切実に今思う。
もうひとつ、
「音楽の演奏というのは、とにかく人に聴いてもらわないとだめなのです。
自分で練習して、ひきこんで、それを聴衆に聴いてもらう。
自分のためだけにひくのではなく、人前でひく。
それを何回も何回も繰り返していくことで音楽がより深められます。
一人でも、二人でも、三人でもいいから、とにかく聴いてもらうことが大切です。
演奏というのは聴き手あってのものなのです。」
なるほど。私がまさにこれ。人の前で演奏していないと自分が生きている気がしない。 自分の部屋で練習したり、曲を作っていても、やはりステージがないと息苦しくなる。 これからは、演奏する機会をどんどん増やして生きたいと思う。 今まで以上に、あちらこちらにKotoをかついでいってみようと思う。 たしかに、聴き手がいない演奏は、自分の部屋でする演奏とかわらないものね。
今日読んだ本は、図書館から借りた「左手のコンチェルト」(ピアニスト舘野泉)という本でした。
この本の中では、他にも、「左手のための」いろいろな作曲家に委嘱をお願いしたり、書いてもらったりしているそうで、 私も、もっと演奏を磨けば、私の二十絃箏に書きたいという方が現れてくるのではないか?切に願っています。 それまでは、自分で書いたり、ある曲を演奏したりしていくしかないけれど。
そしてもう一つの願い、再演。私の曲を、私以外の演奏家にぜひやってもらいたい。 彼らにやりたいと思わせるような曲と演奏を私はこれからやっていかなければいけない。 この決意の大きさを理解してくれる人は、果たしているのだろうか・・・。せめて身近にいてほしい。 そこが今の私の悲しい現実である。
過ぎてしまった日々は戻らない。後悔してもしょうがない(するけど)。 反省をして、これから先、同じ失敗を繰り返さないようにしようと思う。 そう思ったとき、いろいろなことを決断しなければならない。 なぜならば、小さなことをたくさん妥協してきた自分をみつけてしまったから。
演奏活動を続けるということは、お金がなくてもできる。生活を続けるということは、お金がないとできない。 お金を頂かないで演奏するアマチュアと、お金をいただいて演奏しているプロとの違いはどこにあるのだろう。
20代のころ、よく音楽の先輩たちからそういうことを問いかけられた。
「君はなんでプロになろうと思ってるの?(思ったの?)」
これは、当時、どこの現場にいってもいわれたな。どのジャンルの先輩方にもきかれたな。
またか!と思うくらい聞かれた問いかけの一つでもあり、自分でもかなり考えさせられた問いかけでもあった。
箏が好きなら、就職してお金をちゃんと稼いで、そのお金を持ってコンサートなりやりたいことをやればいいじゃないか。
音楽やってる人にまでそういわれた記憶がある。
どう答えていいかわからず、返答に窮した当時が懐かしい。
なんで、自分がアマチュアじゃなくて、プロになろうと思ったのか。あの当時出した答えと今の答えとは変わっていないことに気づいた。 ただ一つ変わったことは、その答えと夢に対しての妥協とあきらめが蔓延し始めていたことか。
気づいてしまったのだ。私はまだ何も成していない。成そうとしていないことに。
せめて、残りわずかな人生、成そうという道を進んでみようと。決めたのだ。
決断してしまうと、話は早い・・・とは、単純にはいかないもので、いろいろな障害が出てくる。 あちらを望めばこちらが引っ込み、こっちを望むとあちらが引っ込む。 そして、いつしか、「良」の道を選ぼうとしていた自分を恥じる。
プロである以上、たしかに収入も得なければ、いけないだろう。それは活動を続けていくための資金であり、自分の演奏に対する対価なのだから。 毎回の演奏が勝負であり、この生きるか死ぬかの覚悟でなおかつ音楽を楽しんでいかないと続かないものだと思う。 その演奏の対価をしっかりと払える環境になることを望みます。 活動を続けてきて、どうもいまの日本は、そういう文化軸が弱い。 国連の安保常任理事国に入りたいというのなら、世界でも有数の文化を応援できる国になってもらいたいものです。
Kotoの演奏家が一人ここで何をいおうとかわらないでしょう。だからこそ私は演奏でものをいいます。 いまできる中での「最良」の選択をしていこうと思います。 そのあがきの中から、何が生まれてどういう結果を残していけるのか。 それが、これから10年の私の演奏家、音楽家としての勝負どころでしょう。
本当、私のファンの方々は、優しい人ばかりだから救われてますよ そこが今の私の悲しい現実である。
アーネスト・シェリングというアメリカのピアニストの人が面白いことをいっていた。
「暗譜には3つの方法がある」
1.視覚によるもの。心の目で楽譜を読むこと
2.耳によるもの。もっとも自然な方法
3.指によるもの。練習・訓練によるたまもの
この3つの練習が行われていれば、演奏の途中でどれか一つの方法による暗譜に不安が生じても、他の二つのうちいずれかがその危急を救ってくれることになろう
なるほどと納得してしまう。 私も自分の曲を含め、ステージでやる曲は暗譜している。 暗譜しようとしているわけではなく、ステージでやるときにはもう暗譜できている。 たまに思うのだが、これは多分、演奏中に譜めくりが面倒くさいという私の性分からきているのかもしれない。
ほかにもいろいろな人が暗譜について語っている。
ミッシャ・ディヒターさんいわく
「腰を下ろして4,5時間集中的に練習すれば、その曲を暗譜したといえる。暗譜されていないとすれば、本当に勉強したことにはならない」
これは、指に覚えさせるという方法なのかな。たしかにこれも必要ですね。頭だけで覚えるのなかなか私はできないですから。 とはいいつつ、厳しいお言葉です。4,5時間集中的に・・・そこかい。
また、ルドルフ・ゼルキンというひとは
「指による暗譜は危険で、信用すべきではない。なぜなら演奏直前まで私は指使いを変更したいから」
なるほど・・・これも一理ありますね。でも、私は練習しているときに、運指は確定したいタイプかな。 練習不足だと、運指すら確定できずに不安のままステージにあがらなければならない。 最近はそういう無様な状態にはなっていないですが、20代は、たまにあったな。反省。
こんな人もいるらしい。アルトゥール・ルービンスタインという人。
「私の暗譜は写真的です。頭のなかでページをめくっているんです。ときにはそこについたコーヒーのしみまで見えてきます」
あぁ、わかるわかる。Kotoの古典(子供のころからやってきた)の楽譜の、あそこに落書きしたなとか、ページのはじっこ遊んでて切り取ったなとか、何行目だとか、わかるものね。 子供のころは、そんなこと考えて本番演奏していたのかとおもうと、今より余裕があったのか、何も考えていなかったのか。後者ですね。
アルゲリッチというひともこんなことをいっている
「暗譜の問題ではないでしょう。演奏そのものの問題です。うまく弾けるかどうかを心配するだけです。そんな心配のある曲は弾いたりしませんわ」
これも納得。いや、そんな心配のある曲をやらないといけない状況・・・あったなと。 人のアレンジで、時間がなくて、あわせる時間もあまりなくて本番むかえたことも過去にあったな。 そんな演奏もしてきちゃったんだな。 そういう状況で演奏しないように、自分の周りの環境を整えていかないと。これからも。
私は覚えようとして暗譜したことはないんですね。
暗譜するまで練習もするけど、暗譜する前から曲のことはよく理解してるし(あたりまえか、自分の曲が多いし)、次のページめくれば、メモかいてあったなとかもあるし。
総合的にちゃんとやっているみたい。今のところ。ちょっと自分で安心。いつまで暗譜で演奏していけるんだろうか。
新しい曲や、他人の曲も暗譜していけるといいなと思います。
この夏、はじめて、私の曲を暗譜してくれた演奏家がいた。実はそこにかなり感動していたんです。
そこまでやってくれましたか!ありがとう。
私も、逆の立場になったら、ちゃんとそこまで曲の理解を深めて演奏するからね。
邦楽、Kotoの世界は、新しい曲が水面下で生まれては消えていってるっぽい。 ぽいというのはなぜか?私の耳に届く曲がないからである。邦楽の世界を離れてから、13年。 私の曲も、あちらの方たちに届いてないから同じことだけど。これはこれで悲しい現状ですよね。 なんとか打破していきたいと常々思っています。
この暗譜あれこれを読んで、私が気づいたことがある。
3番目の練習して指で覚えこませるという手法。
たしかにやっているけど、全然足りていないことに・・・気づいてしまった。
もっと私はできるし、やらないといけない。
そういう風にこれから10年、厳しくやっていこうと。
反省することがたくさんみえてきた。妥協してきたところがたくさんみえてきた。
自分はなにをするために生きているんだろう。
私のファンは、私に優しすぎるんだよね。ついついその優しさに甘えてしまってきていた。 もっと私を厳しくみてくださいな。とてもうれしくてありがたい話なんだけどね
一気に読んだわけですが。特に印象的だったのをひとつ。 マルグリットさんが、1917年に、「練習曲」と「喜びの島」のおさらいをドビュッシーとしていたときの会話。 そのときには、ドビュッシーの友人であった詩人トゥーレ夫妻もいらしたらしい。
1917年という年は、この「練習曲」が作られた年でもあり、ドビュッシーの病気がさらに重くなっていった悲劇の年でもあるらしい。 レッスン(指導)を受けて、ピアノをひきっぱなしで疲れていたマルグリットさんに、ドビュッシーがいった言葉。
「こんなにびしびしやろうとするのを許してくださいよ。わかっているだろうが、私がこの世からいなくなったときに、私の思っていたことを正しく知っているものが残ることになるのだからね」
なんといったらいいのだろう。思わずここで涙が出ました。 私は、もちろん偉大な作曲家と比べられない立場だけれど、それでも私の生んだ子供たち(曲たち)のことを、誰が知っているのだろうと。 私が死んだら、この子供たちを作ったときの想いは、だれにも残っていかないのだろうかと。 急に悲しみに襲われた。 作ったときの心境や、想いは、そういえば、誰にもいったことなかったなと。 本を読みながら、衝撃をうけた。
いつか、誰かに、この私の中にだけある子供たちへの本当の想いを伝えることが出来るのだろうか。