20-strings-koto player
Gayo Nakagaki
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20絃箏なのに、21本?
もともと20本の絃がなぜ21本になったのか、その理由はこうである。
「竜田の曲(たつたのきょく)」(三木稔作曲)の冒頭に 連続するすくい爪がでてくる。 連続するすくい爪は、親指につけた爪で絃を弾き、隣の絃(向こうの絃)に爪を 当てて止め、戻して爪の裏で元の絃をすくう。 第一絃(一番向こうの絃)での連続は、すくうための「隣の絃」がなか ったので、代わりに槽の上面(甲)に当てつづけることになり、まだ一面し かなかった本番用の楽器の甲が傷だらけになってしまった。
しかたなく、当てるための絃を一本足し零絃と称すことになった。これが2年後の1971年のことである。
せっかく増やした絃をただの当て絃とするのは、もったいない。どうせなら・・・音に使ってしまおう。
以後、二十絃箏はすべて21の絃を備えるようになる。現在、多くの作曲家がたくさんの作品を21の絃を対象として書いている。
絃の数え方は、遠い方から、0(零絃),1(第一絃),2(第二絃),3(第三絃),...... と数えます。だから、21本あっても、絃の呼び方は20、20絃箏なのです。

「女楽」〜源氏物語「若菜」より
源氏が女楽(おんながく)〜女ばかりの合奏〜を計画した。みなが集まり練習をする。明石の上は琵琶、紫の上は和琴、明石女御は箏のコト、女三宮は琴のコト、女三宮はまだ手習い中であるので、源氏は琴のコトの正確な調子を合わせるために夕霧を呼ぶ。
合奏が始まる。

明石の上の琵琶は、神々しい手法で音は澄んでいる
紫の上の和琴は、親しみやすく愛敬のある風音
明石女御の箏は、可愛らしく優美
女三宮の琴は、手習い中なのでたどたどしい
源氏・夕霧も、時々拍子をとってうたった

その源氏の声も、若い頃より太く、重々しくなった。
このあと、彼らの中で様々な音楽論が交わされた。

「絃楽器、笛の音は、春秋どちらがよく聞こえるか・・・・」
「七絃琴について・・・・」
「源氏の音楽の後継者・・・・」

なんと優雅な光景なのだろうか。
楽器を演奏しているそのもののことではなく、現代人の忘れがちな「心のゆとり」、そういうものを感じます。


紫の上の泣き所
『紫の上』
源氏の正妻格、理想の女性として彼女は描かれてる
その彼女にも泣き所が2点あったらしい。
1.子供ができなかった事
2.琴のコト(七絃琴)が弾けない事

実際にこの源氏物語が書かれていた頃は琴(キン)のコトはすたれていたが、源氏物語の時代設定はそれ以前であったため、琴のコトがよく登場してくる。

源氏が次々と女性に接近する・・・・・・
心の中は、琴のコトを上手に弾いてくれるのでは・・・・・・
という期待があったのかもしれない。
とすると、琴のコトを弾けない紫の上は、常に脅かされつづけていた、ということになるが。
はてさて真相は?

「コト」の弾き手は、女?男?
『紫の上』
「箏は女性」が弾くもの、という社会通念は、古くは古代の琴にまで及んでいる。次のような話もある。
「ある夏の夜、爪音優しく掻き鳴らされている箏の音を聴きどんな美人かと思い、想像をしながら垣根越しに覗いてみたら、日頃学校で一番恐いひげもしゃの先生がTシャツ一枚になって弾いていたので、驚きと失望で口がきけなかった」(ある生徒談)
また、古代の話では、
「万葉集」巻第七の「和琴」の歌
琴取れば嘆き先立つけだしくも
琴の下樋(したび)に嬬(つま)や隠(こも)れる
これの解釈が
「もしや琴の下樋に(これを弾いていた)妻が隠れているのだろうか」
となっている。ところが琴を弾いている埴輪で、女性の像はほとんどないといっても過言ではない。
また、同じ「万葉集」巻第五の歌
言問(ことと)はぬ木にもありともわが夫子(せこ)が
手馴(たな)れの御琴(みこと)地(つち)に置かめやも
でも、「東歌」の「♪わが夫子がけさの琴手は・・・・」の歌でも、琴の弾き手は「背子(夫子)」である。
したがって、前述の「和琴」の歌の妻というのは、
「琴を弾いていた妻」ではなく
「そばで歌っていた妻」又は「聴いてくれた妻」と解釈すべきではないだろうか

男性がKotoを演奏するのは、珍しいことではなく、逆にあたりまえのことだったのではないでしょうか?


なぜ二十絃箏なのか?
19歳のときに、二十絃箏というものを知った。あるレコードを聴かせてもらったのだ。 その曲は、Kotoの音色のようであり、ピアノの音色のようであり、そしてまた、古典にはみられない演奏方法であった。
「これは、Koto?」
と、私が尋ねた位の感動が、そこにはあった。 その曲が、三木稔作曲、野坂恵子演奏の「華やぎ」という曲である。
二十絃箏人生のスタートは、この「感動」からなのだ。
曲というソフトの面の充実を、三木稔をはじめ、他の作曲家の方々がしてくれたおかげで、ソフトはそれなりに充実していたのも原因の一つであろう。 ソフト(曲)ありきのハード(Koto)なのだなと改めてここで実感した。
この新しいKotoを使用していくにつれ、感じることがある。それは、「七音階標準調律」をしているので、どの現場で五線譜を渡されても、すぐに演奏できることである。 そのためにも、二十絃箏を演奏するときは、なるべく音符の下に糸譜(Kotoの糸番号を書いた譜面)をふらないようにしている。 この汎用性が、私を二十絃箏に深く引き込んだ一つの要因ではなかろうか。
現代音楽を経験し、いろいろな現場を経て、現在は、オリジナルを中心とした活動をしている。それもこれも、この二十絃箏と共に通ってきた道であり、その結果が現在の活動なのである。 そしてこれからも、この楽器と共に活動の場を広げていこうと思っている。
もうひとつ、どうしてもいっておきたいことがある。
二十絃箏を購入し、1年間、「華やぎ」を含む5曲を練習して、野坂恵子のレッスンを受けた。そのときはもうただただ緊張してしまっていた自分がいた。今思えば懐かしい思い出である。 そのときにいわれた言葉を、私は今でも心に刻んでいる。
「二十絃箏は自由な箏だから、自分の思うように演奏すればいいの」
と。この言葉が私の支えになり、逆境に落ちても耐えれた、そして現在の自由な活動の礎になったことは間違いないであろう。
蛇足ではあるが、この楽器が誕生した1969年に私もこの世に生を受けている。これもなにかの縁なのではないだろうか。

柱(じ)がない?
私がまだ大学生だった頃の話です。
横浜の、とある小学校で学校公演の仕事がありました。
朝早く到着しました(もともと早い仕事です)。リハーサルもするのですぐに準備にかかりました。
準備とは、
→ 箏をケースから出す
→ 箏に柱(じ)をたてる
→ 一・ニ・三・四・・・・・

13個目をたて終ったところでなぜか柱がなくなった(箏は 普通13絃なんです)。

「あれ?」
(糸はまだあるのに・・・)
(?)
(なぜ?)
(・・・・・・・?)
(アッ!?)
  ・
  ・
(足らない!)

「顔面が蒼白になる」、「血の気がさぁーっと引く」、まさにそういう事態でした。
そうなんです。この仕事は、二十絃箏のお仕事だったのです。柱は同じ物を使っていたので、13個しか持ってきてなくて、結果8個入れ忘れてたのでした
  ・
  ・
その後どうしたか?
私のライブのときにでも、こっそりとお尋ねください。


譜面がない?
学校公演ネタです(実はいろいろやっている)。
この小学校は、低学年と高学年にわかれて鑑賞会がありました。そうです。違うプログラムで二回の演奏をするのです。
はじめ 低学年でした。演奏も無事終わり、休憩後、生徒入れ替えで高学年に移りました。

(ここで豆知識)
休憩の時に、高学年用の楽譜(ほとんど暗譜はしていたのだけど)を 順番に並び替えておきました。(体育館のステージの横のピアノの上で・・)低学年と同じ曲もあったので、それは抜いて、高学年用の曲は中に入れて綺麗に順番に並べました。

さて高学年公演が始まります。

***** パチパチパチパチ *****
***** パチパチパチパチ *****
***** パチパチパチパチ *****
・・・(拍手の音です)・・・
さぁっ、一曲目!
と思ったら、なぜか 尺八の人が「お江戸日本橋」(2♭)を吹き始める。

「?」-----------(私の譜面台の上には「犬のおまわりさん」が・・・・・・)
「??」(調絃(Tuning)も 2#の 「犬の・・・」用にしてある・・・)
「???」 (・・・・・・)
「・・・・・・・・?」(・・・)
(アッ!?)
(ンッ?)
(犬のポリスは、さっき低学年でやったし・・・)
(でも楽譜は休憩のときに、並び替えて確認したし・・・)
  ・
  ・
尺八がSoloで吹いてる間、一番前にいた私は、「ゴソゴソ」「ペラペラ」 「汗汗」と目の前の楽譜をめくって確認にはしる。
(ガーーーン!)
(ない!)
(後半に使う楽譜が一枚もない!)
(・・・・・・・・・・・・・・・・・)

おっちょこちょいの私は、せっかく綺麗に並び替えた楽譜を、しっかりとPianoの上に置いてきたのです。そして、その横にあった今日はもう使わない楽譜を手にもって、のこのこと 舞台に出ていってしまったのです。本当に見事に後半使う予定だった曲は1つもありませんでした。


ここはどこ?
遠征演奏での話。これも20代前半の出来事。
まだ寒い、ある年の2月でした。
総勢22名の名古屋・犬山での公演(日帰り)でした。新幹線は、9:00東京発のひかりです。 メンバーの中で一番若かった私は、早起きしました。 しかもウォーミングアップ付き!。朝の4:00に起きて、眠気覚ましに練習をちょこっとしてたんです。 そして7:00に家に帰って楽譜やら荷物整理して8:00に家をでました。
(この余裕が今思うと・・・)

さて、ここからが本題。
新宿についたのが 8:15です。ここから東京まで(JR中央線で)20分。

(余裕だね!)
と思い、電車を一本見送って次のにのった私。なんとなんと、平日のラッシュなのに座れたのであった。
(Lucky!)

さてここで、予備知識。

新宿 → 四谷 → お茶の水 → 神田 → 東京(終点)=JR中央線

座ったとたんに眠りにおちた私。
ハタッ!と目を覚まして 「こ、ここは何処?」っと思ったら、丁度、四ッ谷を出たところでした。

(ホッ!)
(今日は仕事だし、行きだから 寝るのやめよう)
と決めて、ごそごそ新聞を取り出しました。こういうときしか ゆっくり読めないし、まぁ新幹線でも寝れるし・・・。
などと考えているうちに お茶の水に到着しました。いえ、到着したはず・・・・・・・・・・・・でした。

けれど、そこは、・・・。私の庭となっている駅でした。(ただ通るだけだけど)

(?なぜ ここに・・・)
(え?)
(ん?)
   ・
   ・
「やばっ!まじっ!? 」

そうなんです。ここは 新宿だったのです。そんなことより 時間!

9:18 - 9:18 - 9:18 - 9:18 - 9:18
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
はい お馬鹿な私は、東京駅まで行ってそのまま折り返してきたのです。だれも起こしてくれなかった。

その後のことは、想像にお任せします。